「アメリカ人相手の商売なら自信がある。マクドナルドはアメリカから来た、佐世保にはアメリカ人が沢山いるんだから・・・」
昭和24年3月、のぶ代はクリーニングやアメリカ人相手のバー、自転車屋を経営する家の6人兄弟の末っ子として産まれた。商売をしているが故、家にはいつも従業員やお客さんがいてのぶ代の遊び相手となっていた。特にアメリカ人のお客様には幼いのぶ代は人気の的だった。当時としては珍しいアイスクリームやチョコレートをおやつにもらい、非常にかわいがられた。この頃にアメリカ人の好みやティストを植えつけられたのかもしれない。家庭でののぶ代は末っ子ということもあり、母光子のことが大好きだった。母ものぶ代を一心同体のように育てていった。それは高校生になるまで光子と一緒に寝ていたくらいである。こうして、のぶ代は商売人の家でお客様や母の愛情を沢山受けて幼少時代を過ごしていったのである。
時代は高度成長期の昭和46年、日本経済が飛躍的に成長を遂げ、サラリーマン家庭も海外旅行に行きはじめた時代に丸田のぶ代(佐世保バーガーの母)は、わずかな資金を元手に喫茶店「ヒカリ」を佐世保市矢岳に開業した。のぶ代20歳のときである。コーヒーやハンバーグ、ステーキ、スパゲティを見よう見まねで提供した。当時は佐世保市内でもコーヒーや軽食を出す店は少なく、開業するや地元のお客は勿論米軍キャンプのアメリカ人までも店におしかけ大繁盛店となった。毎日、朝早くから夜中まで店の仕事に明け暮れる。それでも充実した楽しい日々が続いた。
ヒカリ開業から2年後、のぶ代に転機が訪れる。それはマクドナルドの日本進出のニュースであった。ヒカリの営業は順調だったが、この頃のぶ代の中ではいつも自問自答していることがあった。「このままの喫茶店ではいつかつぶれる」と。「マクドナルドはアメリカからきた。アメリカ人相手の商売なら自信がある。そもそも佐世保にはアメリカ人が沢山いるんだ!」「素材にこだわった、美味しいハンバーガーをお客様に提供しよう」ヒントが見つかった。当時のぶ代は二郎と結婚して
いた。二郎は勤めていた会社を退職し、のぶ代のハンバーガー作りに協力していった。
二郎は手先も器用で、味についても抜群の感覚を持っていた。パティ(ハンバーグ)を何度も作っては知り合いのアメリカ人に試食してもらった。パティと共にバンズ、ベーコン、マヨネーズの試作に明け暮れる日々が続いた。そして、昭和46年、ついに現在の佐世保バーガーが誕生したのである。
佐世保バーガーの販売が始まると、その味に多くのお客様が集まってきた。特に二郎の周りにはその人柄に魅せられて多くの若者が集まってきた。味と人柄で店は大繁盛し、再び息を吹き返すのであった。しかしながら、その数年後、事情があって「ヒカリ」を親戚に譲りわたす事となる。
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